東洋哲学には「世界は空である」という考え方があります。
きちんと勉強すると、もっと複雑な話なのだと思います。
ただ僕はこれを、自分の日常に引き寄せて、かなり単純に考えています。
僕は東洋哲学の「空」を、世界がからっぽであるという風には考えていません。
むしろ逆に、世界は本当にさまざまなもので満たされています。
しかし、それらには最初から固定された形や意味があるわけではなく、さまざまな条件や関係によって、その都度形をとっているもの、と理解しています。
人間が生きている世界は、かなりの部分が「仮定」でできているのではないか。
もちろん、目の前に机があるとか、雨が降っているとか、すでに起きていることについては事実があります。
しかし僕たちは、事実だけを材料にして生きているわけではありません。
生活のかなりの部分は、
「たぶんこうなるだろう」
という未来予測によって成り立っています。
時刻表も、未来についての仮定である
たとえば僕たちは時刻表を見て駅へ向かいます。
「8時15分に電車が来る」
これは、まだ起きていない以上、未来についての仮定です。
事故が起きるかもしれません。
信号故障が起きるかもしれません。
それでも普通は、そんなことをいちいち考えません。
電車が来る蓋然性が非常に高いため、ほとんど事実と同じものとして扱っているからです。
つまり人間は、
「十分に確からしい仮定を、現実として運用する」
ことで生活しています。
これは電車だけではありません。
来月も給料が振り込まれる。
この店は明日も営業している。
注文した商品は届く。
この薬を飲めば症状が改善する。
この人は約束を守る。
どれも未来については確定していません。
しかし、それぞれに異なる確からしさがあり、僕たちはその確からしさを暗黙に見積もりながら行動しています。
AIが見せたのは「予測」の力だった
AI、とくに大規模言語モデルを見ていて面白いのは、確率的な予測だけでも、かなり高度な世界理解らしきものが成立してしまったことです。
次に来る可能性の高い言葉を予測しているだけ、と説明されることがあります。
それなのに文章を書き、議論し、ある程度まで次の展開を予測できます。
これを見ると、逆に人間の認識についても考えさせられます。
僕たちもまた、
「この表情なら怒っていそうだ」
「この人ならこう答えるだろう」
「こういう状況なら次はこうなる」
という予測を絶えず行っています。
人間が「世界を理解する」と呼んでいたもののかなりの部分は、過去の情報から、次に起こりそうなことを推定する能力だったのかもしれません。
そう考えると、人間が生きている世界は、
「確からしさの異なる無数の仮定」
によって満たされているように見えてきます。
「過去を手放せ」の意味も変わって見える
スピリチュアルの世界では、よく「過去を手放せ」と言います。
僕はこれも、こんなふうに理解できるのではないか?と考えています。
過去を手放すとは、
「過去から作った予測パターンを固定するな」
ということではないでしょうか。
一度失敗した。
すると、
「自分はこれが苦手だ」
という仮定ができます。
その仮定から、
「次も失敗するだろう」
という予測が生まれます。
すると挑戦しなくなります。
経験が増えないので、本当に苦手なままになります。
ここで現在を拘束しているのは、過去そのものではありません。
過去から作った予測モデルです。
だから過去を手放すとは、過去を忘れることではありません。
過去はデータとして持っていていい。
ただし、
「過去から作った予測は、現在の状況によって更新できる」
と考える。
時代の変化によって環境が変わり、新しい波が来ているとき。
それに乗ろうとするなら、昔作った予測モデルを使い続けていては、新しい可能性をつかみ損ねかねません。
ミニマリストが物を減らす理由
同じ考え方をすると、ミニマリズムも少し違って見えます。
物を持つということは、単に物質を所有することではありません。
物には未来が付いてきます。
本を持てば、
「いつか読む」
「整理しなければならない」
「引っ越すなら運ばなければならない」
という未来ができます。
車を持てば、
保険、車検、修理、駐車場という未来ができます。
家を持てば、
修繕、税金、立地、資産価値という未来ができます。
つまり物を持つとは、
「未来への拘束条件を持つ」
ことでもあります。
ミニマリストが減らしているのは、物の数だけではありません。
未来を縛る条件を減らしている、と考えることもできます。
仮定は、現実を説明するだけではない
ここからが重要です。
仮定には、未来を予測するだけでなく、未来を変える力があります。
たとえば、
「このままでは大変なことになる」
という仮定があるとします。
一人だけがそう考えているなら、単なる予測です。
しかし多くの人が信じれば、行動が変わります。
企業が信じれば投資が変わります。
政府が信じれば法律が変わります。
消費者が信じれば市場が変わります。
建築家が信じれば建物や街が変わります。
つまり、
仮定
↓
行動
↓
集団的な選択
↓
制度
↓
現実
という流れが起きます。
最初は頭の中にしかなかった未来予測が、最後には法律や建物や商品になって返ってきます。
ここまで来ると、
「仮定だから現実ではない」
とは言えません。
社会では、十分な数の人が採用した仮定が、現実を変えることがあります。
戦争も、この延長にある
戦争も同じ構造で考えることができます。
たとえば、世界のどこかの片隅に、以前から仲の悪い二つの国があり、いがみ合いを続けていたとします。
あるとき、一方の国で、
「隣国は危険かもしれない」
という仮定が広がり始めます。
それをメディアが大きく報じます。
刺激的なニュースは読まれます。
人は怒ります。
政治家は、強硬な態度を取った方が支持されると考えます。
軍は、最悪の場合に備えます。
もう一方の国は、それを見て警戒します。
軍備を増やします。
すると最初の国では、
「やはり危険だった」
という確信が強くなります。
最初は仮定だったものが、
仮定
→ 感情
→ 報道
→ 世論
→ 政治
→ 軍事行動
→ 相手国の反応
→ 仮定の強化
という循環を作ります。
ここで怖いのは、だれひとり「戦争を起こそう」と考えている必要がないことです。
新聞社は新聞を売りたい。
視聴者は刺激的なニュースを見たい。
政治家は支持率を上げたい。
軍人は危険に備えたい。
一般市民は自国を守りたい。
それぞれは、それぞれの場所で動いている。
しかし、それらがつながった結果、戦争の蓋然性が上がることがあります。
「隣国は危険かもしれない」という仮定が正しかった場合でさえ、それにどう反応するかによって、その後の確率分布は変わる。
だから、もし最悪の事態がおきてしまったとしても、
「指導者や軍部が暴走した」
だけでは説明が足りないのでしょう。
それを許した世論もあれば、煽ったメディアもあり、それに反応した政治もあります。
世界は単純な一本の因果関係ではなく、無数の相互作用によってできています。
だから僕は、
「誰が悪かったのか」だけでなく
「それぞれのその発言や行動は、その後の出来事の確率をどちらへ動かしたのか」
と考えた方がいいように思います。
では、みんなでよく考えればいいのか
ここまで考えると、
「だから政府もメディアも国民も、もっとよく考えて行動しましょう」
という結論になりそうです。
しかし、こうした呼びかけも一つの仮定によって生まれたものです。
なぜなら、
「そう呼びかければ、多くの人がよく考えるようになる」
という期待や願いが、その背景にはあるからです。
今回の話では、どんな主張も蓋然性の物差しにかけてきました。
ここだけ例外にする理由はありません。
倫理的な呼びかけに効果がある場合もあるでしょう。
しかし、自分がそれをやることに、どれだけの効果が期待できるのか。
自分の時間や労力を使うに値するのか。
特別視することなく、それも他の行動と同じように考えればいい、というのが僕個人の考えです。
世界全体を変えることを、すべての人が自分の課題にしなければならないとしたら、義務としては重すぎるのではないでしょうか?
むしろ、自分が動かせる範囲で、何を選ぶかを考える。
僕にとっては、その方がずっと現実的です。
この考えを、人や組織を見る物差しにする
人間は未来を知ることができません。
だから必ず仮定を作ります。
その意味では、間違った予測をすること自体は避けられません。
差が出るのは、その仮定をどう扱うかです。
たとえば、
「絶対こうなる」
「そんなことは起きない」
「みんなそう言っている」
「可能性があるから危険だ」
という人がいます。
ここでは、仮定と事実が混ざっています。
もう少し考える人なら、
「こうすると、相手はこう反応するだろう」
くらいまでは考えます。
さらに考える人なら、
「相手がそう反応すると、その次に何が起きるか」
まで考えます。
もっと考える人なら、
「そもそも自分は何を事実として、何を仮定として扱っているのか」
を考えます。
そして、
「何が起きれば、自分の考えを変えるのか」
まで持っています。
まとめるなら、人や組織を見るとき、大切なのは次のような点です。
- 自分の行動の先に起きる反応まで考えているか
- 「起こり得る」と「起こりそう」を区別しているか
- 望んだ結果だけでなく、副作用も考えているか
- 仮定と事実を分けているか
- 新しい情報が出たとき、自分の考えを更新できるか
これらを見るだけで、その人や組織がどれだけ考えているかは、かなり分かります。
これは頭の良し悪しとは少し違います。
頭がよくても、最初に考えた仮定を絶対に変えない人はいます。
むしろ頭がいい人ほど、自分の仮定を守るための理屈を大量に作れてしまうことさえあります。
だから見るべきなのは、
「どれだけ難しいことを言うか」
ではなく、
「自分の知らない部分を、どう扱っているか」
なのだと思います。
予測精度の低い人と付き合うと、自分が損をする
これは道徳の話ではありません。
単純に実用の話です。
「絶対大丈夫」
と言って失敗する人。
「なんとかなる」
と言って準備しない人。
逆に、
「危険かもしれない」
「問題になるかもしれない」
と、低い確率の悪い未来ばかりを大きく扱う人。
どちらも、予測モデルが粗い。
そして、その人と一緒に行動すると、予測の誤差によるコストを周囲が負担することになります。
仕事なら、
納期遅延、予算超過、トラブル。
私生活なら、
時間、お金、感情的な負担。
人間関係とは、ある意味、
「相手の予測モデルに、自分の人生の一部を預けること」
でもあります。
医者を選ぶ。
弁護士を選ぶ。
仕事相手を選ぶ。
友人を選ぶ。
結婚相手を選ぶ。
政治家を選ぶ。
政府を支持する。
メディアを見る。
どの場合も、
「この人、この組織の世界認識に、自分をどの程度乗せても大丈夫か」
という問題があります。
だから僕は、よく考えている個人や組織や政府を選びたいと思います。
社会を救うためではありません。
その方が、自分にとってプラスだからです。
予測精度の高い人や組織が周囲に多い方が、僕は暮らしやすい。
自分に返ってくる損失も減ります。
それで十分です。
世界が空なら、分からない部分をどう扱うか
ここまで見てきて、結局、最初の「世界は空である」という話に戻ります。
僕たちは世界のすべてを知ることはできません。
未来については、なおさらです。
だから、僕たちにとって世界には常に分からない部分があります。
人間はその分からない部分を、何らかの仮定で埋めながら生きています。
恐怖で埋める人もいます。
願望で埋める人もいます。
他人の意見で埋める人もいます。
すぐに断定せず保留できる人もいます。
確率を考える人もいます。
新しい情報によって、自分の考えを変えられる人もいます。
世界が空であるなら、
人を見るときには、
「その人が分からない部分をどのように仮定するのか」
を見ればいい。
何を知っているか以上に、
知らないことをどう扱うか。
そこに、その人や組織の考え方が出ます。
そして自分についても同じです。
自分が何を事実だと思い、
何を仮定して、
どの程度それを信じ、
何が起きれば考えを変えるのか。
そこを見ながら、自分が動かせる範囲で選んでいく。
誰と付き合うか。
何を持つか。
どんな情報を見るか。
どんな仕事をするか。
どんな組織を支持するか。
どの仮定に、自分の時間やお金や人生を乗せるか。
世界が空であるというのは、世界全体について答えを持たなければならないという話ではありません。
むしろ逆です。
分からないことは分からないまま残しながら、今の自分にとって、望む結果につながる蓋然性の高い選択をする。
そして状況が変われば、また更新する。
こんなふうにシンプルに考えればいいのではないでしょうか?
大きな哲学の話として始まりましたが、自分にとって役に立つのは、こんな結論でした。